学校が合わない生徒さんへ

寺子屋もくもくには、「学校に行っていない」「学校に行きたくない」「学校に自分の居場所が感じられない」といった生徒さんが何人も通っています。

そんな人たちへ、私がいち個人として・進路やキャリアの専門家として考えることを記します。

前提として、学校には行けた方が良いけれど

学校は、すべての国民に学びを保証するための素晴らしい機関です。そこには学びがあり、経験があり、人のつながりがあります。
学校には、行けるなら行ったほうがいい。私はそう思います。

しかし、それはあくまでも「行けるなら」の話。
今の自分には、学校はちょっとしんどいな、と思うことはあるでしょう。それは決して「甘え」や「弱さ」ではありません。
今の学校の雰囲気は、私が平穏に過ごせる場ではないな、と思うこともあるでしょう。それは決してあなたの責任ではありません。

行けないときは、行けなくて良いのです。

学校に通うことは義務ではない

知識の話です。

小学校と中学校は「義務教育」ですが、小学校中学校に「通う義務」はありません。
保護者の方にも、「子どもを無理やり学校に行かせる義務」はありません。

「義務教育」は、子どもたちが平等に教育を受ける権利を奪ってはいけませんよ、という意味です。

社会に出てから困るのか

学校に通っておかないと社会に出てから困るかも、と不安な人もいるでしょう。

結論として、今それを考える必要はありません。
理由はいくつかありますが、ここではおよそ2つ。


社会の中では、「嫌なことには嫌だと言う」「自分を傷つけるものから距離をとる」という力がとても大切です。学校に行かない選択は、その練習にもなります。


そもそも、あなたはもう社会に出ています。社会に出るというのは、成人することや就職することではありません。だから、将来のことではなく「今の私が、今の社会とどう関わるか」を考えたらいいんです。

大切なのは、学校に通うことではなく、学べること

生きていくためには、学ぶことは絶対に必要です。
学ぶことをやめてはいけない。(休憩する期間はあって良いですが)

ただし、それが学校教育である必然性はありません。
指定教科書の内容である必然性も、全員が同じ年齢で同じことを学ぶ必然性もありません。

20年くらい前までは、不登校は「異常」な行動と見られていました。
(私は小学校に1日も通っていないので、異常でした)

今は違います。
文部科学省は「不登校は、問題行動ではない」と言っています。
学び方の多様性が、少しずつ、認められてきました。

「私は、学校で学ぶ」
「私は、◯◯で学ぶ」
「私は、来年からにしようと思う」
そんな時代も、近づいています。

学ぶためには「心理的安全性」が必要

これが、この記事でいちばん言いたいことです。

人は、授業を受ければ学べるのではありません。
問題集をたくさん解けば学べるのでもありません。

「心理的安全性」が保たれているときにこそ、脳が「学びモード」になります。
学びモードになった脳は、新しいことをどんどん吸収します。

心理的安全性とはどんなことでしょうか。
・理不尽な扱いを受けないこと。
・怖いおもいをしないこと。
・安心できて、自分らしくあれる居場所があること。
・理解してくれる人、味方になってくれる人がいること。
・勉強ができる自分も、できない自分も、同等に価値が認められること。
・食事や睡眠などの健康的な生活が大切にできること。
といったような、「心の健康」のようなものです。

学ぶことは重要。だからこそ、心の安全はもっと重要です。

学校を休んだ日の1日

学校に行きたくない。でも、その1日をどこでどう過ごしたいいかわからない。
学校を休むと、勉強ができなくなる気がする。
学校を休んだ日に、私の居場所がどこにもないような感じがした。
そんな人もいるのではないでしょうか。

学校に行かない日のおすすめの過ごしかたも、学校以外の学び方も、実はたくさんあります。
ぜひ、聞きにきてください。

出席数や成績の心配について

とはいえ、進路のことが心配になることもあるでしょう。

出席数が足りなかったら。
成績がつかなかったら。

平等に教育を届けるはずの仕組みが、学校に行かないことによる不平等を生んでしまう。
それはとても悲しいことです。

具体的な解決の方法は、人によって違います。
不安なことは、寺子屋もくもくに相談に来てください。

塾長は、受験の専門家であり、キャリアの専門家です。
通塾や学習指導に限らず、定期的な面談などの形でお手伝いすることも可能です。
本人からの相談、保護者の方からの相談、どんな小さなもやもやでも、ぜひ話してください。

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